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まなび場立ち上げまでのストーリー

会社員としての経験が、自分を見直すきっかけに

もう6年くらい前になるでしょうか、
その頃の私は、自分が起業するなんて全く考えていませんでした。
それどころかサラリーマンで一生を終えることに何の疑問ももっていませんでした。

当時、50歳直前で転職したIT関係の会社に勤めていました。
上司や同僚はみな親切で職場環境も良く、仕事への情熱と夢にあふれ、
ついに理想としていた会社を見つけた!生涯をかける仕事を見つけた!
自分はここで一生懸命働いて、定年を迎えるんだろうなあと漠然と考えていました。
 
そんな理想的な職場で人生の岐路に立たされることになろうとは、夢にも思わず。


その会社に勤務するまでは大阪の商社で働いていました。
通勤時間は往復3時間
責任ある立場、
家事との両立、
この生活を定年まで続けられるか?

将来のことを考えると体力的な不安は拭えず、
悩み続けた結果、自宅から近いところで働こうと転職を決めました。
 
「仕事なんてすぐ見つかる!」
「自分のキャリアを活かせ、かつ好条件で働ける会社!」
就職活動に対して気楽に考えていましたが、
当然のことながら年齢的にも難しく
そう簡単に見つかるものではありませんでした。
 
田舎から呼び寄せたばかりの母は、私がいつもどおりに家を出ないと
「どうしたの?仕事行かんの?」と不審がりました。
母に心配をかけてはいけないと、それまでどおり朝は7時半に家を出て
公園で公共施設の開くのを待ち、図書館で一日中本を読んだり、
ハローワークをはしごしたり、友人宅で過ごしたりと、
テレビドラマでよくあるリストラにあった会社員の様相を
自分が再現するなど夢にも思っていませんでした。

就職活動も5カ月を過ぎた頃から、長期戦を覚悟し
アルバイトで大手進学塾の講師と、個人宅で家庭教師を始めました。
そして就職活動8カ月、ようやくたどり着いたのが、その会社でした。
競争率は47倍だったと聞き、奇跡のような巡り合わせに感謝しかありませんでした。
 
しかし、人生は思い通りにならないもの。
 
入社して1年と数カ月後、経営状態の悪化で会社がリストラを始めました。
 
もちろん、いちばん新人の私も対象者でした。
うすうす業績から気づいてはいましたが、
実際に呼び出されて会社の現状を告げられ、
私自身の今後のことを話し合いたいと言われた時は
あまりのショックに目の前が真っ暗になりました。
 
リストラとか倒産とか、それまで何度も周囲で見聞きしていたのに
自分にはまったく無縁のものだと考えていたのです。
 
話を聞きながら冷静を装ってはいましたが、頭の中で、
自分は役立たずの不要な人間なんだ。
これまでの自分はいったい何者だったのか。
これからどうして生きていけばいいのか。
そういったことがぐるぐる回っていたことを鮮明に覚えています。
 
ところが、話が進むうちに話は意外な展開に。 

上司の口から出た言葉は、 
「久保さんは、塾講師として副業を持たれていると聞きました。
そちらを続けながら勤務時間を短縮して、就業の継続はできませんか。
時間短縮の分、給料は下げますが社会保険も職務内容も現状のままです。
いつまでとは言えませんが、私たちも全力で会社を立て直しますから。」
 
恐らく同僚の誰かから私のことを聞いて知っていたのでしょう。
 
給料の相当額をカットされるので
生活できない人は退職の道を選ぶしかありませんが、
私の場合は別の収入があるから退職しなくて済むだろうという
会社からの温情だと思いました。

ところが、
正社員として会社に就職したのを機に、
塾は担当を引き継いで既に辞めており、
家庭教師としては新規の生徒さんは全てお断りして、
受けもっていた生徒さんたちの卒業を待って廃業しようと考えていたところでした。
ですから、当時の生徒さんは2人だけ。
副業収入などゼロに等しい状態でした。
 
副業としてその仕事に戻るのは一からやり直すと同じこと。
しかし、選択の余地などなく、「やるしかない!」と無我夢中で
再度別の塾での講師の仕事を探し始めました。
 
幸いにも何とか仕事は見つかり、10時から16時までは会社で働き、
その後塾でアルバイトをする日々が2年ほど続きました。
 
アルバイト収入の方が会社からの給料を上回るまでになり、
生活は安定し、両仕事を上手く回せるようになってきたころ
会社から正社員として戻ってきてほしいと告げられました。
 
もともと大好きな職場でしたので、なんの抵抗もなく正社員復帰となりました。
仕事量は以前にまして増え、多くの権限も得て一年半後には執行役員に昇格しました。
 
しかし、日ごとに自分の中に生じてくる違和感を抑えることはできませんでした。
 
この会社で正社員として再スタートしたということは、
副業は止めてまた生徒たちを切り捨てなければいけないということ・・
その思いからか、以前のような会社への忠誠心も情熱もなくなっていました。
 
自分はいったい何をしたいのか。
何のために、誰のために働いているのか。

副業を優先して、会社を辞めれば、
会社の看板もなく自分の力だけで何ができるのか。

自問自答を繰りかえす日々が続きました。

責任ある立場にいる以上、半端な仕事はしたくはないし、できるはずもない。
いずれ会社の仕事か生徒かどちらかを切り捨てなければ、
どちらに対しても失礼にあたり、体力的にも無理がある。

では、どちらを?
 
会社には交代要員はいくらでもいる。
私である必要はない。

では、生徒たちには私が必要か、といえばそうではないかも知れないけれど、
私自身が彼らの力になりたいし、必要としてもらえる存在になりたい。

そう思うと決断は簡単でした。やはり、子ども達は切れない。
 
収入面では相当厳しくなることはわかっていましたが、今がその時で、
決断しなければ一生後悔すると思いました。
 
1年前の3月、会社に退職の意向を申し出ました。
上司は私の様子からうすうす何かを感じていたようで、
割とすんなりと受け入れてくれました。
 
ところが、どこまでも温情あふれる会社です。
 
「塾が始まるのは夕方からで、昼間は時間があるでしょうから、
週に一日でも会社に来られませんか。
肩書は社外取締役とし、社会保険もつけます。
報酬は提示してください」と。
 
こんないい会社、きっと日本中探してもないでしょう。
つくづく自分は愚か者だと思いましたが、
上司からのお話は断り、7月末で退職することにしました。

今では、その会社にも、リストラというショッキングな出来事にも、
心の底から感謝しています。

私の夢を実現に導いてくれたこと
この人生を選択するチャンスをもらったこと
本当に良い経験をたくさんさせて頂いたこと
私にとって、すべてが必然だったと。

そもそもどうしてアルバイトが塾の講師と家庭教師だったのか

私は今でこそ教育に関わっていますが、
高校生までは成績も中の下くらいで目立たず、特に英語は下の下。
クラスの大半は塾に通っており、学校の先生は彼らのペースで授業をされるので、
塾に通わせてもらえない私は全く理解不能のまま中学2年で英語は完璧に落ちこぼれ。
授業に全くついていけませんでした。

ところが、何とか入った公立高校でクラス担任だったのが英語のS先生。
S先生に恋をした私は、何とか先生の注意をひきたい一心で
猛烈に勉強を始めたものです。
 
その甲斐あって、1学期の期末テストではクラスで10位以内に、
学年末には3位に入りました。
その後も、英語は常に90点以上という信じられない結果に。
そうしていると、先生からも褒められるようになり、
 
「あなたは本当によくここまで頑張ったね。これからも頑張って!期待しているから」
と声をかけていただき、モチベーションは更にアップ。
 
必死で勉強に励み2年になると、ついにクラスでトップに。
成績はそのまま維持し、三年生の2学期まではトップを守り続けました。
ただ、それ以降は息切れし、卒業時には5位にまで落としたものの
S先生という一人の先生に出会えたことで、
私の運命が大きく変わりました。

それまでうつむき加減で、人の後ろに隠れるようにひっそり生きていた私が
「自分でもやればできるんだ」と自信と自己有用感にあふれ、
輝きだしたことを昨日のように覚えています。
 
 そして、今から18年ほど前、
「うちの子に英語を教えて」と友人に頼まれたのがきっかけで
小学6年生3名に「英語は人と人がつながるために必要なツール」という位置づけで
日本語同様、人が言葉を習得する過程をそのまま再現するよう会話中心に、
発音の仕方や英語圏の文化などについて教えることになりました。
 
英語なんて初めての子どもたち。
文法はめちゃくちゃで、簡単な単語と身ぶり手ぶりだけのやりとり。
大切なのは、自分が伝えたいことをどうやって表現するか、
そして相手に関心をもち、相手が伝えたいことを理解する努力をすること。

回を重ねるうちに、表情も表現方法も豊かになり、
彼らが中学校に入学する頃には、
ちょうど小学生が文字の読み書きに目を輝かせるような、
学びのタイミングになったはずです。

その後、彼らは皆、優秀な成績を修め、立派な社会人として活躍しています。
(ただ、これは彼らのご家庭における教育のたまものですが・・・)

それ以降も会社勤務の傍ら、教えてほしいという依頼があれば東奔西走。
勉強がわからなくて、絶望的な目をしていた子どもたちが、ある時とつぜん
「わかった!そういうことかぁ!」と、
目を輝かせるのを見るたびに
私の方が幸せな気分にひたらせて頂いたものです。

ただ、それを職業にしようと思ったことは全くありませんでした。
私は一生、会社員として働くことしか頭になかったからです。

本当に子どもたちの力になれるカウンセラーとは?

転機が訪れたのは、長男が高校2年生の秋です。

所用で彼の担任の先生をたずねて学校へ行ったおり、帰り際に
「久保さん、実はお願いがあるのですが、、」と
呼び止められました。
「○○君(長男)と一緒にカウンセリングを受けていただくことはできませんか」
 
当時その高校は県内で初のスクールカウンセリング導入のモデル校でした。
ところが、週2回カウンセラーの方が来られているにもかかわらず、
そこを訪れる生徒も保護者も一人もなく半年がすぎ、
誰かカウンセリングを受けてもらえそうな人を探しておられるところだったそうです。
 
わが家の長男も私も、そのカウンセリングとやらの対象にふさわしい(?)人間と映ったのでしょう。
 
先生から直々にお願いされたことより、興味本位が先にたち、
翌週から長男と私はスクールカウンセリングを受けることになりました。
 
当日、多少緊張して保健室のドアをノックすると、
私と同年代と思われるカウンセラーさんが笑顔で迎え入れてくださいました。
あいさつと自己紹介をしたあと、その方はおもむろに何やら大きな書籍らしきものを
私の前に広げられたのです。
 
それは、ロールシャッハテストの図版一覧でした。
例の白い画用紙にインクを落として二つに折り、それを広げて
それが何に見えるかによって心理分析する有名な投影法による心理検査です。
もちろん真面目に答えて、何やらお話をして部屋を出たことを覚えています。
 
その翌週は、画用紙に木の絵を描くバウムテスト。これも心理テストです。
どうやら長男も同じことをさせられていたようです。 


普通に暮らしていると一生受けることのない検査です。
どうやら私たちは、普通ではない親子だったということでしょう・・
 
何度かカウンセリングを受けて感じたことは、
本当に援助の必要な生徒は誰一人としてここには来ないだろう、
私ならこんなやり方はしない。
 
そうだ、生まれ変わったらスクールカウンセラーになって子ども達の力になりたいものだ。
そんなことが頭に浮かび、数日後ふと考えたことは、
 
はて、来世の自分は、はたして人間として生まれてくるだろうか。

もしかしたら、ゴキブリかもしれないし、豚や牛かもしれない。
それなら現世で夢を実現させなければ後悔する!と思いなおし、
心理カウンセラーになろうと決心したのです。
 
41歳の冬でした。
 
それならば専門的・系統的に学ばなければ…そうだ大学で勉強しよう!
家庭があるので家から遠くないところで、教育心理系の学部で、
かつ社会人を受け入れているところを条件に、
龍谷大学受験を決めました。
 
折しも長男も高校三年で受験生、それなら一緒に勉強しようと親子で受験勉強をスタート。
 
一年後、同じ大学から大きな封筒と小さな封筒が届いた日に、長男が一言
「オカンの封筒の方が大きいやん!」と。
 
翌年、私は念願かなって「42歳の女子大生!」に。
 
入学式当日、式場に入ろうとすると、
係り員の方に父兄席を案内され、「私、新入生です!」と
誇らしげに告げたことを思い出します。
 
大学では思いもよらず若い友人がたくさんでき、共に学び、遊び、時に支え合って、
それは楽しい学生生活を過ごしました。
そうそう、長男と歳の変わらない男子学生から愛を告白されたり、なんてこともありましたが(汗)
 
教育学を学んで、最も印象に残っている先生の言葉があります。
 「子どもたちは学力だけでなく、努力するという姿勢さえ、
家庭のもつ文化資本の影響を受けているのです。
だから、努力できない子どもたちを責めることは間違いです」

それまでの私は、努力するかしないかというのは自分次第であり、
努力しないことを環境や誰かのせいにするのは卑怯だと考えていました。
 
しかし、それ以来
 
勉強のできる子、努力のできる子は誰が教えても成績はあがる。
その子たちを教えるのは私でなくてもいいのではないか、と思うようになりました。
 
むしろ、
 
勉強なんて大嫌い。
勉強する意味なんてわからない。
学校は面白くないし行きたくもない。

昔の自分の姿が重なる子ども達を見ていて、あの時のS先生のように
次は私が誰かの運命を照らす人になりたい、という思いを抱くようになりました。
 
大学卒業後はゼミの教授から紹介して頂いた専門機関で
カウンセリングの勉強をつづけることになりました。
 
勉強をつづけるうち、スクールカウンセラーになるには
教育機関での5年以上の経験が必要ということを知り、
カウンセラーへの夢が遠のいていくように感じました。
 
しかし、そこでくじけては高い授業料と4年という歳月をかけて大学へ行った意味もなく、
子どもたちを援助したいという思いも途絶えてしまう。
そこで会社勤務の傍ら、夜間と週末を利用して大手進学塾でこっそり修行することにしたのです。

そして夢の実現、まなび場立ち上げへ

塾講師や家庭教師として、数多くの生徒たちと身近に接する中で
「私なんて」「僕には無理」といった
自分自身への否定的なマインドを持つ生徒が少なくない、
ということが気になっていました。
しかし、これは決して能力の問題ではありません。
単に勉強の仕方を知らない、あるいは間違ったやり方で続けている、
何でも暗記に頼る姿勢、時間の使い方や日常の過ごし方を誤っている。

これらの問題や一人ひとりの課題に対して少しずつ、
根気よく改善や努力を重ねることで、
生徒たちは見違える成長をみせてくれました。 

また、改善の過程で、
自らが積み上げてきた過去の事実が現在の自分をつくっていること。
そして、たゆみない努力と行動の積み重ねで、
将来は思いどおりの自分をつくっていけることを理解してくれました。 

こうして自己肯定感が高まるにつれ、生徒たちは運や才能に頼らず、自らの力、
「本物の学力を身につけること」を目指して自ら学びにいくように変化していったのです。

私が長年ビジネス社会とつながってきて痛感していることがあります。
それは、学歴や偏差値だけでは通用しない社会になっていること。
 
そんな社会で生き抜くためには授業という一方通行の座学だけでなく、
変化する社会情勢に即した具体的・実践的キャリア教育が必要です。

しかしそういった長い人生を見据えた教育をしてくれる塾は私の知る限りありませんでした。

自分自身がリストラという状況下におかれた時のことを思い出し、
あの時たとえば「キャリア転換」という概念を知っていれば、あれほど辛い思いをすることも、
無駄にエネルギーを消耗することもなかったろうに、 と改めて思います。
これからの時代に必要なのは、
学校の成績だけでなく社会で活かせる知恵、本物の学力、そして生き抜く力。

仕事をしていると、社会の厳しさや楽しさを日々体験し、
幾度となく大きな壁に突き当たります。
「能力」や「才能」や「誰か」に頼るのでなく、
「自らの成長を頼り」に困難を乗り越えてきたからこそ、
「生き抜く力」の大切さを心からお伝えすることができる。

そんな思いで立ち上げたのが、この「まなび場Pole Pole」なのです。


指導方針

これまで家庭教師として指導させていただいた生徒さんの中には
「お母さん、久保先生に見てもらってること誰にも言わんといて」
というお子さんが何人かおられました。
「どうして?」と尋ねると、
「皆ライバルだから教えたくない」とのこと。 


勉強することは偏差値を上げ、誰かにうち勝って良い学校、良い会社へ入ることが目的でしょうか。
これからは「個の時代」といわれます。
人は一人ひとり違い、それぞれの個性がかけがえのないもの。
その、かけがえのないものが天分であり、その天分を活かすことが天命であり
そして使命だと考えています。
英語では天分のことをGiftといいます。

私たちが生を受けたとき、長い人生という道のりを歩みつづけるために
ただ一つ必要なものとして、神様から与えられた「贈りもの」なのです。
「誰とも違う自分であり続けるために」 自分の得意分野を深掘りし、
それを生涯にわたって、少しずつ磨きつづけていくことが「勉強」だと考えています。

彼らに言うのは、「ライバルは昨日のあなた自身」ということ。
花も木も毎日少しずつ成長しています。
昨日のあなた自身に「えへん!どうだ」と言えますか?

「教えてもらう」という受身の学びでは、
21世紀の国際競争社会を生き延びる力はつきません。 
当塾では、自ら考えて行動・体験し、得た知識を取捨選択して知恵に昇華し、
問題解決能力を身につけ、自分以外の人のために働ける。
そういう人に成長して頂きたいと思っています。
 
そのためには、人間関係および社会性構築の基本である、
家でお手伝いをする、明るく大きな声で挨拶をする、
当たり前のことを辛抱強く続ける、友達と仲良くする、といったことを推奨し、
確実な学力と共に人間力を磨きつづけるようサポートさせて頂きます。
歩きはじめの赤ちゃんは無心に前へ進もうとし、転んでも、すぐ立ち上がります。
けれども成長するにつれて転ぶのを避け、転んでもすぐ起き上がれなくなるのは、
知恵がつくからでしょうね。そして、転ぶ(失敗する)のは格好悪い、転びたくないと思う。
失敗はたくさんした方がいい。 むしろ失敗から学ぶことの方が多い。

大事なのは「転んでも立ちあがる」ことなのです。
何度でも転んでいいのです。
そして、せっかく転んだんだから、
ついでに何かそこらへんにあるものをつかんで立ち上がる。
そういうことが出来るようになるための勉強、
「転んでも起き上がるための勉強」を指導します。

「自分さえ良ければ」という他者に対する無関心・身勝手な発想は
子どもたちの健全な成長を阻害します。
共に学ぶ仲間と助け合い、時に競い合い、互いを高め合うことで
より高次の能力や社会性が身につきます。

そして学んだことは、自らの内で自己完結させるより、
人に伝える(教える)ことで確実に定着します。
それは教師である私が身をもって体験しています。
その実践のために「教えて学ぶコース」も用意させいただいております。


まなび場で大切にしていること

キャリア教育

現代の子どもたちは、多くの知識と情報の洪水のなかで
取捨選択することなく手当たり次第に取り込み消化できず、
おぼれそうな状況になっています。
昔のように家庭や地域が相互協力し、教育力のあった社会では
高等教育を受ける者はある程度明確な目的や
夢、使命感などをもっていました。

また就職についても、今のように様々な業種はなく、
家業を継ぐのが当然という風潮もあり、選択肢は少なかったものです。

そういう意味では現代の若者は恵まれているはずですが、
彼らがこれを享受する様子はほとんど見受けられません。

更に、現代の子どもたちには知識はありますが、
それを活かす知恵や生きる力が欠如している、
それも小学生から大学生まで共通していえることです。

その原因が「知識を活かす体験の不足」と「家庭や地域の教育力の低下」です。

現代は、核家族や地域での人間関係の希薄さから、
子ども達は昔のように周囲の年長者から社会で生きるための
規範や知恵を授かる機会はほとんどありません。

一方で多くの知識や情報を得ながら、視野の狭さや嗜好に基づく偏り、
思い込みなどでむしろそれらに翻弄されているのが現状です。

彼らの多くが高校入学後、周囲の勧めでとりあえず進学を選択します。
さらに大学で4年費やして自分の進むべき道を探しあぐね、
付和雷同で、とりあえず就職活動をします。

そして将来を見据えぬまま、とりあえず合格した企業へ就職し、
しばらくして自分の過ちに気づいて退職、
あるいは転職するのです。

日々こうした生徒たちを見るにつけ、社会に出るまでの間にキャリア教育を通じて
働くことの意味や尊さを知り、人との関わり方の基本と自立する力を身につけてもらうことが、
教科の学習と同等に重要だと考えています。

最近、よく見聞きするワークライフバランスや、ノマド。
意味するところはそれぞれ違いますが
元々は西欧の宗教観、労働観に基づいた言葉です。
そもそも西欧における労働観は
禁断の果実を食べた罰として与えられた“苦役”であり、
一方、東洋には使命とか修行というとらえ方があり、
天から授かった仕事という意味の天職という言葉もあります。

この労働観の違いは私たち日本人には大きな意味をもつと思います。
キリスト教文化における労働観で労働を捉えている限り
働くことは、 正に苦役であり、逃れたいもの。
しかし、代々受け継がれてきた東洋的思考からいえば、
労働は与えられた能力を活かして自己を表現し、
自己実現をするための手段と言えます。

仕事を自らを活かす天職でなく、苦役と捉えていては
仕事に喜びを見出だすことはできないでしょう。

将来を担う子ども達に万遍なく適切なタイミングで、
キャリア形成の支援および、生き方や働き方についてアドバイスし、
目的意識と意欲をもって学習に取り組めるよう工夫しています。

変化の激しい今日、

「失敗をしない生き方」でなく、
「失敗は必要な経験の一つ」であり、「自分を高めるチャンス」
と肯定的にとらえるマインドをもっていただきたいと考えています。


子どもが子どもである時代を生きる教育

子どもの能力は、知力、体力そして人間力(人格)と共に成長します。

幼児期に自我が芽生え、集団に入る学童期には、
集団のなかで新たな人格の萌芽がみられるようになります。

昔から子どもの集団には元々「自治の力」がありました。
「遊び」や「言葉遣い」や「ケンカ」においても年長者やリーダーがいて、
年少者をかばい、いたわるという厳然とした不文律という形で存在していたのです。

ところが現代では、子どもの集団は学校に存在するだけで、
地域ではほとんど見られなくなっています。

子どもが、子どもとしての行動様式や価値観、考え方を学ぶ場は消え、
核家族の家庭において大人である両親だけが彼らのお手本となり、
子ども期を子どもとして十分に生きられない
大人びた子どもとして成長することになります。

一方で、子ども集団が機能するはずの学校では、集団は先生方によって管理され、
下請け的に委員会や生徒会といったリーダー組織が人為的につくり出されました。

そこではガキ大将に代わって、品行方正で学業優秀なリーダーが
大人の意図を汲んだ形で組織され、本来の機能を発揮することはありません。

友達づくりの経験が乏しいうえに仲間意識の希薄さや、
他者と関わることへの不安が加わり、
子どもたちは不安定になっていきます。

こうした経緯を考えると、学級崩壊がどうして起こるのかもわかると思います。

クラスに集まっても、その授業で何をするの目標や目的は語られず、
形式的な内部統制は他律的であるため、
学習方法は子どもたちの自律的・主体的なものではないからです。

当塾では、子どもたちが自ら問い続けることを促し、
小学生から高校生までが同じ教室で学びます。
共に学ぶ仲間として、自然発生的に自治集団が再現される場になるよう、
大人の介入は最小限に工夫しています。